私も昔は怒っていた。
同じ苦しみを味わえばいい。
そう思ってた。
虐待を受けて脳に障害を持って
歩けない。
話せない。
だけどゲラゲラ笑ったり
食べることとトランポリンやブランコが大好きな女の子の
ケアワーカーをしていたときがある。
その女の子は生後十ヶ月の時
母親に壁に投げつけられて
頭に大きな傷と、
脳に損傷を負った。
それを聞いたとき、仕事中なのに涙が止まらなくなって、
考えることは、母親への怒りじゃなかった。
この子にその出来事が起きてなかったら、
どんなふうに私に話しかけてくれたんだろう。
どんなに自由に笑いながら走り回ってただろう。
どんなに、楽しそうにトランポリンを自分の足で飛ぶことができただろう。
どんな容姿の女の子だったんだろう。
とか、そういうことを考えてた。
容姿はひどかったわけじゃないけど、
傷はやっぱりはっきりと残ってるし、
目が脳の障害があるとわかるようなすこし焦点があってないような、横に流れるように動いてしまうような状態だった。
それからは、自分にできることは何か。っていうことをよく考えてた。
批判をしたり怒りをぶつける事は簡単。
だけどそれによって子供を助けられるのかな?
怒りや批判にパワーを使うより、
自分に何ができるか、
どういう在り方でいたいのか、
っていうことにパワーを使ったほうがいい。とおもった。
でも自分にできることなんて限られる。
大したことはできない。
できることと言ったら、周りにもしそーゆーこがいたら、気付ける人になること。
子供を救うために、親の話も聞いてあげること、できることをしてあげること。
かばってるんじゃない。甘やかしてるわけでもない。
出来ることをやるだけ。
そんなちっぽけなことしかできないかな。って思ってた。
でも、そんなちっぽけなことでも、みんながそういうふうに思えれば、救えた命もあったかもしれない。
言葉って難しい。
文章だけじゃ真意が伝わりにくい。
批判してる人や怒ってる人を批判したいんじゃない。
誰かと議論したいわけじゃない。
ただ悲しい事件が起こるたびに
私は、怒りや批判よりも、
何ができたか、
何がこれからできるか、
そういうことを考えていきたいと思う。
対岸の火事じゃない。
生きにくい世の中を構成してる一員の私にも少なからず責任はあるとおもう。