何かの本で、
名前っていうのは、その人にピッタリの名前が用意される。
って読んだ記憶がある。
私の名前は父方のおばーちゃんがどこかのお寺に行って付けてくれた名前だと聞いたことがある。
自分の名前の響きは嫌いじゃないけど、
漢字は四角っぽくて好きじゃなかった。
理恵っていう名前。
しかも母親から聞いた意味は、
理性に恵まれるように。
これを聞いたときに私は違和感を覚えたし、
恵まれるって、なんか、嫌な感じだな。
もらうって雰囲気が出てて。
と思ってた。
でもふと大人になってから自分の名前について考えてみたことがあった。
それでしっくりくる私の名前の意味を見つけた。
私の本当の名前の意味って。
恵まれる。じゃなくて、恵む。じゃないかって。
理性じゃなくて、真理じゃないかって。
真理を恵むって意味なんじゃないか。って。
その意味がすごくしっくりきて、それからは私の名前の意味と人生のテーマは周りの人に真理を恵むことだな。となんとなく思って生きてた。
そして、運命の相手。みたいな人に気づいたとき、
その人の名前に同じ恵という漢字が入ってて、
二人の名前を併せると、
真理を恵み、それを拡大させていく。
みたいな意味になる。
それに気づいたとき、
名前って、見えないものの力が絶大に関わっているものなんだって、妙に納得した。
そして、私の人生には本当によくあることなんだけど、
私に関するものってすごくチープに思えることが多かった。
例えば、どこにでもいるような名前。
運動は得意だったけど何にも秀でてない。
見た目もあんまりよくないし、女の子にしては手が大きかったりごつかったりで、かわいくない。
歌も歌えるけど、ただ歌えるってだけだし。
絵も下手。
自信を持てる要素とか、何か特別なものを持ってる感じが全くしなかった。
でも、最初はそう感じても、後で気づくことが多い。
名前の意味もそう。
器用貧乏なところも、子供と関わる時にすごく役に立つ事がわかった。
何でもある程度できるってことは幅広く子供達にある程度までは教えられるって事。何かに特別秀でてなくても、何でも教えられるってこと。それはある意味才能だと気づいた。
手が大きいことだって、たぶんそのおかけで器用さに恩恵を受けてると思うし、
そんなに美人じゃなくても、好意を抱いてくれる人がいることで逆に自分に自信がもてるし。
そうやって、なんでもない、もしくは劣ってると思ったことって、後で、すごい恩恵を受けてるんじゃないか?と気づくことが、私の人生にはすごく多い。